さこたつみ【佐古竜巳】のブログ

日々の活動や生活の気になったことを紹介します。

佐古竜巳後援会事務所開き

 

 本当は、10月12日に行う予定だった後援会事務所開きは、台風の影響で、警報が出ていたので、翌日に延期しました。なので、12日は事務所の片づけを手伝ったり、街宣用の原稿を基に事務所開き用のスピーチを考えたりしました。

 そして、事務所開き当日(13日)事務所開き1時間前に、事務所に到着、まず、思ったのが、あまりにもガラガラだったらどうしよう。当然ながら1時間前には、数人だけです。

 スピーチを憶え切れていなかった為、ちょっと最後のあがきをしつつも、来てくださった人に挨拶をしながら。開始の時間をむかえます。気が付けば、用意した椅子に座り切れないほどの人が集まってくださりました。

 達田よしこ県議の司会の元、県委員会、阿南市議、新日本婦人の会、生活と健康を守る会、の人がお話をしてくださりました。僕が入党してからの経緯を、よく知る人たちからのエールは、心強いものです。なかでも新日本婦人の会の山田さんは、沖縄の県知事選挙で、玉城デニー当選の喜びを分かち合いながら、同じ日に沖縄から帰って来た話をしてくれました。

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 そんなこんなで、自分が話をする番が、回ってきました。後半、覚えきれなかったので原稿をちらちら見つつ、自分の訴えをしました。

 阿南市議の保岡さんが行動提起をしてくれたのですが、他の各候補者の詳細をすごくまじめに紹介してくれたのですが、ところどころにちりばめられた、笑いのツボはさすがでした。最後に、この事務所から出た人は皆、当選している縁起のいい事務所だと紹介してくださり。みんなの拍手が起こりました。

 最後に後援会会長の貞本さんが、ガンバロー三唱をしてくれて、無事、事務所開きを開くことができました。早速、昼からも頑張りましたが、明日からも、頑張ろー

 最後に、遠方から来てくれました皆様、ありがとうございました。

県道の騒音問題

 

                             2019/9/10/12

今までの経緯

 春先に市の水道の工事で設置した空気弁の鉄蓋のがたつきが原因の騒音問題で、市と県の担当者に来てもらい、市が対策工事をするということになり、市は鉄蓋を取り払い舗装で埋めるという対処をしました。僕自身はとりあえずの応急工事なのかなとも思っていたのですが、先日、振動による被害が解決していないことを聞きました。

 春先の立ち合いで、県の担当者にも言ったのですが、県道を横断する用水のコンクリート構造物が原因で振動が起こっている事は明らかであり、僕自身も2級土木施工管理技士を持っていますが、知り合いの現場監督にも相談しました。コンクリート構造物の極は段になりやすく、振動を解決するには舗装の修繕以外にないという結論でした。

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道路内のコンクリート構造物の回りは下がりやすく、振動の原因になることが多い

10月8日 

 南部総合県民局に、達田よしこさんと僕(佐古たつみ)とで、道路維持管理の担当者に振動解決の要請に行きました。

 県の担当の方はすぐに現場を確認してくださり。確認後の状況を電話でいただきました。

県 :確かに舗装はあちらこちら傷んでいるようです、特に家のある側の傷みが激しいように思われます。おっしゃられていたように用水のコンクリート構造物が振動の原因だと思われます。

佐古:工事してくれるんですよね?

県 :上司にまだ報告していないのですが、おそらく優先順位は低いかと思います。

佐古:春先にも問題の解決を提起したのにどういうことですか?

県 :それでは、一度、現場で立会しませんか

佐古:それでは明日、立会いでよろしくお願いします。

  • 10月9日

県の担当者2名、住民2名、佐古、あわせて5名で立会を行いました。

振動被害の生の声が一番、県の担当者に響いたと思います。実際に舗装の不陸や舗装の割れ、白線や横断歩道の線が消えかかっていることもあり、補修工事をする事を約束してくれました。しかし、予算の関係上、すぐは出来ないそうです、しかし、年度内にはしてくださるそうです。

10月10日

 市の水道課に説明してもらいたいことがあり、訪ねるが担当者不在、数時間後に電話が架かってきて現場を見てきたとの報告を聞きました。

佐古:舗装が亀の甲のように割れているが漏水の疑いはないのか?空気弁の鉄蓋の工事はあれで終わりなのか?この先、空気弁の蓋を設置する工事をする事はあるのか? 

市の水道課:工事をした業者に聞き取りをしてみます。

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10月11日

市の水道課:工事をした業者に聞き取りをしましたが、工事中に漏水と思われる事象はなかったとのことです。鉄蓋もこの先、設置する予定はありません。近所の方にも工事後に説明に行きました。

佐古:工事が終わった後、何の話もなかったと聞いていますが?

市の水道課:近所と言いましても、鉄蓋に隣接する家だけにしか伺っていません。

佐古:わかりました。お忙しいところお手数おかけしました。

 

以上、10月12日現在の報告です。

 

報告者:佐古竜巳

台風が残したもの

 まず、初めに千葉県の台風15号の被害を受け死亡された方のご冥福をお祈りいたします。被災された皆様が普段の生活にいち早く戻れますよう願います。災害ボランティアに駆け付けれず申し訳ない気持ちです。

台風で壊れたベランダ床板の補修

台風の強風でまくれた床をしばらくほったらかしにしていたのですが、時間の都合をつけてようやく修繕しました。その一部始終を紹介します。

 強風によりベランダの床板が2枚外れてしまったので、補修作業を行いました。溝にかまして連ねていく形式の床材ですが、いざはめようとすると重なり合うようになってしまい入りません。悪戦苦闘の末、端っこのが入ったので、端から踏みつけていき何とかはまりました。

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端から踏みつけていきます。

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次に溝のキャップを外すとねじが見えるはずでしたが‥‥

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げっ!長年のコケやら土が溜まっています。

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洗ってみると、ねじ出現、錆びて朽ちていました

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桟の位置をキャップに控えます。

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新しいねじを、インパクトドライバーでバリバリとやります。

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キャップを閉じて掃除をして完成です

 作業をしていて気付いたのですが、桟の一部が腐ってくちていました。今回、応急処置でしたが、次にまとまった時間ができれば、桟から変えねばならないと思います。とりあえず、たちまちの台風には大丈夫だと思うので、今回の作業は以上です。

戦争体験を聞いて

 阿南平和委員会の企画で戦争体験を聞きました。Oさんのお話を書き起こしてみました。

軍事教練に明け暮れた青春時代

 生まれた翌年に満州事変が始まって、1945年の終戦の年まで、後に15年戦争と言われた時代が私の青春時代でした。真珠湾攻撃のあった年に富岡中学校(現在の富岡西高校)に入学しました。戦争体験という話ですが戦争による苦しさとか食糧不足を耐え忍んだ話とかは、親は心配や苦労はあったのでしょうけど、私本人はそう言う経験はないんです。

富岡中学校には、在郷軍人(退職軍人)が配属されて、軍隊教育、軍人教育を学校でやっていたんですけども、富岡中学校の場合にはある重大な事件がおきまして、県からの要請で在郷軍人1人だけでなくて配属将校(現役将校)が1人配属されてきて、校長よりも権限を持つという状況でした。

朝、学校に登校したら、まず《君が代》を歌って、《教育勅語》を斉唱しました。そのあと授業が始まるんですけど、6時限のうち普通の教科は2時限だけでした。あとは全部、体育(軍事教練)に費やされました。その中で特に特徴的なのは【軍人精神注入棒】これ海軍の真似したんですけどね。六角棒でお尻を叩くんです。

さらに何の訓練やるにしても、10人で班を組むんです。その10人の行動が一糸乱れぬ行動でなかったら罰則がつくんです。その罰則について特に印象に残っているのは、富岡中学校から現在ゴルフ場になっているあたりまで往復(およそ4㎞)する訳ですが、成績の悪い2班を校庭に並ばして、10人ずつが対向ビンタ【向かい合わせで殴る】を強要されました。初めは友達同士だから、なかなかできないのですけども、だんだんやられたら、その気になって、殴り返す。公認の殴り合いやからね。それでもなおかつ手加減しとる生徒なんかがいたら、教官がすぐやってきて、軟弱者だということで、六角棒でお尻を叩くんですね。なので皆、泣きながら必死になってやらないと自分だけがボロボロにされるということで、それをやったんです。

大人も逆らえなかった当時の非人道的教育

それを見かねて、担任の太田先生(あだ名は背広を着ているがボロボロだったので高等ルンペン更に略して高ルン)は英語の教師だったんですけども、罰則の現場に寄ってきて「ちょっと、いくら何でも非人道的ではないか」と将校に抗議したんですよ。そしたらとたんに、その先生が標的になって、生徒の見ている前でめったやたらに殴る蹴るをやられて失神したんです。その後、10日ほど、太田先生は休みました。そして、再び出てきたときには国民服(カーキ色の詰襟服)を着て、見かけだけは軍国教師に変わりましたという風貌でした。

そして、いつも朝から《君が代》《教育勅語》さらに《軍人勅諭》までも斉唱、これがだいたい20分かかるんですけども、毎日斉唱、普通教科2時限の後は軍事教練の日々が続くわけです。

米軍機による那賀川鉄橋列車襲撃事件

 これは、なかなか人には言えなかった話なんですけども、当時、夏休みでした。あと少しで終戦というときなのですが、1945年(昭和20年)7月30日の那賀川鉄橋列車襲撃事件の話です。当時、何人か指名されて立江の山の中に駐留日本軍専用防空壕を作る作業をしていました。「今も掘りかけの壕が残っている」それに動員されて、交代で1日に何人かが、その穴掘りに行くわけですが、あの、実はさぼって、小松島まで行って映画を見たり友達と遊んだりしていました。

 その帰りに乗った列車が米軍機による空襲に遭います。当時、終戦間際で勝ち誇っていて遊び半分の艦載機2機が起こした事件なんですけども、意味のない殺戮です。まず機関銃で列車のボイラーに穴をあけ、減速するわけです、次に2両目と3両目の間に小型爆弾を落とします。それで停止させて、それで旋回してきて機銃掃射を2回やったと思うんですけども、誰かが伏せろと言ったので窓際で伏せていました。窓は初めから終わりまで全部撃ち抜かれました。自分は伏せていたので頭の上を弾丸が通過したのですが、反対側の窓際にいた人たちは足首が飛ばされたりしていたのを見ました。

 私たちは子供だったので、怖いという思いが強く米軍機が去ったあと、線路づたいに逃げました。まもなく消防団が到着して、近くにあった製材所の敷地に死傷者が運ばれました。むしろの上に80体程の死傷者が横たわっていました。その後、いっしょの列車にたまたま乗り合わせた1つ上の先輩と共に富岡駅(現在の阿南駅)までトボトボと歩いて帰るわけですが、この話は口に出すわけにいかんな、2人だけの秘密にしようということにしました。おそらく動員をさぼっていたのがばれたら体罰があるというのがあったのでしょうけども。

脳裏に焼き付いた悲惨な状況

 一番印象に残っているのは恐怖に耐えかねてあの高い鉄橋から飛び降りたものの水位が低いので頭を打ちつけて、そのまま亡くなったりだとか、製材所に集められた80体の人はほとんど死者だったんですけども、一番心に残っているのは、おそらく死んだ母親の横に今生まれたばかりの赤ん坊がギャーギャー言って泣いていたんです。もし生きていたら75歳になっているんかな、生きているなら会ってみたいという気持ちがあります。‥まあそういうことです。私自身はあんまり褒められた話ではないので恥ずかしい話なのでこのくらいにしますけどそういう状況だったわけです。

感想

淡々とお話ししてくれたOさんですが、赤ん坊の話をしたとき、涙ぐんでいました。戦争は人間の感覚も狂わす非人道的なものであること。どんなに大義名分をつけようとも意味のない殺戮であることがよくわかりました。昨今の戦争では兵士よりも民間人の死者の割合の方が多いのです。戦争は外交の失敗で恥です。日本はまだ戦争をしない方法を選び取ることができます。

那賀川を行く

 

下流から一つ目のダム(川口ダム

 

今日は新聞赤旗(日曜版)を木頭まで届ける日でした。那賀川上流に向かって走るのですが、3つのダム湖の側を通ります。常に水が動かないためか濁り不自然な緑色の水です。ダムのない牟岐町で育った僕にとって川の底が見えない事がとても気になります。自然をコントロールするために作ったコンクリートの構造物は、自然を壊してしまっている。もう一つ気になるのが山は緑ですが、杉ばかりと言う事です。国策で杉を植えまくったからです。「杉は根が張らないので貯水力がない、緑の砂漠だ」那賀町議の大沢さんはそう言います。牡蠣の生産地は海を肥えさせるには山からだと山の環境から考えます。杉は針葉樹林なので落ち葉は腐葉土にならず、山は痩せる一方です。漁獲量が年々減っているのは当然の事です。海と山は一体です。自然のダムをなくし、コンクリート構造物のダムをつくった結果、水質は悪化。かつては澄んだ川だったはず。

 

二つ目のダム長安口ダムのダム湖に架かる橋、腐りかけていてスリルのある橋

  • ダムのメリット:水力発電、干ばつ対策、
  • デメリット  :放流の判断を間違うと水害が起こる、水質悪化、景観を損なう。

3つ目の小見野々ダムと杉ばかりの山

 

 那賀川はかつて暴れ川と呼ばれ龍神の怒りを鎮める為に、村娘を生贄に捧げたという昔話が残る川です。

 ダムは大量に水を貯める物です。人間の予想を超えない雨量ならコントロールできるかもしれません。しかし人間の予想を超えた雨が降るとコントロールどころか暴れ川に姿を変えることもあります。自然をコントロールしようとは人間の驕りです。便利さと引き換えに那賀川が失ったものは大きいように思えてなりません。

 

 

小見野々ダム上流、昔の川底は遥か下だったそうだ。今は土が堆積してしまっている

「表現の不自由」考える

反省の気持ち、そして同じ過ちは2度と繰り返さない

過ちて改めざる是を過ちという《「論語」衛霊公から》過ちは誰でも犯すが、本当の過ちは、過ちと知っていながら悔い改めないことである。

 表現の不自由展その後をめぐって、慰安婦像が反日の象徴の様に捉える人たちがいる。今日(8月28日)の地元新聞は神奈川県知事が慰安婦像について「事実を歪曲したような形の政治的メッセージだ」と批判した。という記事を掲載していました。同じ日の赤旗新聞に「少女像に込めた思い聞く」というのが掲載されていたので、紹介します。  

以下、赤旗新聞日刊紙8月28日号の記事より (写真・記事:栗原千鶴)

「少女像」日韓の懸け橋に

 ソウルの平和路に設置された「少女像」

製作の彫刻家キム・ソギョンさん キム・ウンソンさん語る

 28年にわたり韓国ソウルのい日本大使館前で「慰安婦」問題の解決を目指したたかってきた被害者の若かりし日をモチーフにつくられた「平和の碑」(少女像)。製作した韓国の彫刻家キム・ソギョンさんとキム・ウンソンさん夫妻に、少女像に込めた思いや、展示が中断された国際芸術祭・あいちトリエンナーレの「表現の不自由展・その後」について聞きました。

手を取り被害想像して

少女像は1992年1月から現在も毎週行われれている「慰安婦」問題解決のための水曜行動が、1000回を迎えたことを記念して2011年12月に建てられました。日本の一部の政治家や保守系のメディアは、少女像を「反日の象徴」などといいますが、それは違います。「慰安婦」の被害の歴史を記憶し、人権のためにたたかい続けるハルモ二(おばあさん)をたたえ、運動を象徴するためのものです。

 少女像には、ハルモ二の苦しく長かった人生や未来への夢など、すべてをこめました。

韓国社会の問題も

少女の後ろに伸びている影は、ハルモ二の姿になっています。少女の時に動員され、謝罪を受けることのないまま年を重ねたハルモ二の悲しみを表現しました。肩に乗っている小鳥は、平和と自由を象徴し、今もこの地でたたかい続けるハルモ二と亡くなったハルモ二をつなぐ絆です。

 被害にあった当時、朝鮮の女性は長い髪を三つ編みにするのが一般的でしたが、あえて短く、毛先のそろっていないおかっぱ頭にしました。それは大切な家族や故郷から無残に引き裂かれたことを意味します。当初そっと重ねようと考えていた両手は、日本政府が建立を妨害していると聞き、ハルモ二のたたかいを表す握り拳にしました。

 

 擦り切れているはだしの足は、彼女たちの歩んできた人生の険しさを表しました。その足は少し、かかとが浮いています。これは被害者を受け入れることをしなかった韓国社会の偏見と、無策だった韓国政府の無責任さを表しています。

 韓国は、大家族の家父長制でした。被害を受けたことが恥ずかしく、解放後も故郷に戻れなかった人がいます。帰ることができても、家族や親せきにさえ疎まれ、再び故郷を去らざるを得なかった人もいる。被害者が罪人のようにひっそりと生きていかなければならなかったのです。 

 金学順(キム・ハクスン)さんが実名を公表し、被害を告発したのは1991年8月でした。その事実に心を痛めつつも、被害者がいて加害者もはっきりしている、解決はそう遠くないだろうと考えていました。

 しかし2011年1月、水曜集会に遭遇しました。まだ解決していなかったのかという驚きと、そのことを知らなかったという申し訳なさが募りました。集会の主催団体を探し訪ねると、支援者から寄付を募り「平和の碑」建立プロジェクトが進行中で、芸術家としてできることをやろうと決意しました。

再展示求める声に希望

 芸術家たちの表現の自由が守られることは民主主義の基本です。「表現の不自由展」で、少女像が最後まで展示することができれば、日本に民主主義があるということが証明されると考えていましたが、そうはなりませんでした。短い時間でしたが、私が会場にいて感じたのは、日本の市民の成熟した姿勢です。

 説明を熱心に読みメモをとる人や、ハルモ二たちの境遇を思って涙しながら鑑賞する人もいました。多くの人から「展示してくれてありがとう」「反日の象徴だと誤解していた」と声をかけられました。中断している「不自由展」の再開を求め行動する市民もいて、被害者の人権を無視している安倍政権とは違うと感じ、本当にうれしく思いますした。

反日ではなく共感

 少女像の隣には誰も座っていない椅子を置きました。亡くなったハルモ二たちが隣で見守っているよ、という意味があります。そして通りかかった人が、なぜここに椅子があるのかと考え、座って少女像の手を握り、ハルモ二が夢見る平和を想像したとき、この作品は完成します。

 少女像を訪れた人は、暑い日には帽子をかぶせたり、寒い日にはマフラーをまいたりします。手紙を書いてくる人もいます。そこにあるのは「反日」ではなく、つらい人生を歩んできた被害者への共感です。

 安倍政権は憲法9条を変えて戦争できる「普通の国家」になろうとしていますよね。いま、戦争は絶対ダメだという日韓の市民の連帯が大事だと思います。

 少女像がその懸け橋になることを願います。一人ひとりの小さな行動、その小さな炎が、大きな歴史をつくるはずです。

 

    引用終わり

 

あとがき

 戦争とは最大の人権侵害です。

 想像してください日本が戦争して、その後日本にとっていい未来が見えますか?僕には見えません、「普通に生きたい」という人の命や人生を奪うそんな過ちは、けっして繰り返してはならないのです。赤旗新聞の記事を読んで少女像をじかに見てみたいと思いました。この日の1面にも戦争体験者の話が載っていました。こちらも感動しました。真実を伝える新聞赤旗は魅力ある記事がいっぱいです。

誰もが個人として大切にされる社会の方が生きやすい

 大工に憧れた小学生時代

 僕は昭和51年生まれ、現在43歳です。去年の7月から日本共産党に勤めています。海部郡牟岐町で生まれで、うちの家はおやじも爺ちゃんも大工でした。ガタイが良いわけではないのですが職人の親父の腕は太く、大工に憧れ、小学校の文集では将来大工になって自分でお城を建てると書きました。母からは度々いつお城建ててくれるんやと言われていました。高校は徳島工業の建築科に進学しました。部活は陸上部をしていました。高校2年の時には徳島駅伝で海部郡チームとして福井駅から桑野の喫茶店メリットのコースを走りました。

卒業後、就職した会社は10月で辞め、親父が勤めていた建設会社で大工をする事になります。当時すでにバブルがはじけていて、一緒に働いていた大工からは「これからの若い衆は一生懸命働いても、わしらの頃のようにええ目することはない」と言われていました。実際、勤めていた建設会社も平成20年に倒産してしまいました。倒産しなければ今でも大工を続けていたと思います。

土木の世界はブラックが当たり前と思っていた

 失業後、大工の仕事を探しますが、条件の合うところがなく、土木の会社に勤めます。そこは典型的なブラックな働かせ方をする会社でした。就職後1週間目で指を怪我しました。骨が見えるほどの怪我でしたが労災隠しの為に会社は労災を使うことはありませんでした。収入がないと生活ができないので当時は包帯をしたまま働くしかありませんでした。3か月休みなく働いた時もありました。休日手当などもありません。9年間この会社で働きましたが、8年目に転機が訪れます。腰の手術の為、入院したのですが、そこのリハビリを担当していた人に、入院中、僕は何度も会社の愚痴を話しました。「会社に不満があるなら会社をかえればいい」と、その人に言われました。労働の対価以外にも理不尽なことに我慢することも給料に含まれると思っていた当時の僕にその言葉がすぐには響くはずもなかったのですが、その人は幾度も愚痴を聞いてくれて、労働者の権利をかみ砕いて教えてくれました。退院後、この出会いがきっかけで日本共産党に入党しました。

土木作業員の人権をないがしろにする政治に疑問を感じ始める

そのころ、原発事故由来の除染土を土木工事に使うという法案が持ち上がっていたことを、現場監督から聞き一人徳島駅で署名運動を始めました。きっかけは2つあり土木作業員の人権をないがしろするこの法案は決して認められるものでないということ。環境を破壊する恐れのある資材は工事には使ってはいけないというのが土木の国家試験にも出てくる常識であるということです。原発事故後政治のモラル崩壊が加速していると感じました。国のしていることとブラックな会社運営が自分の中で重なり、建交労に相談に乗ってもらい労働者に呼びかけ社長と団体交渉をし建退共に関すること、労働時間、休日手当、残業手当、年次有給休暇、労災隠しをしないなど、多くの前進回答が得られました。しかし根本の政治が良くならなければ暮らしは良くならないと感じるようになります。

誰もが個人として大切にされる社会へ

 労働者の権利を主張すると共に、安定した仕事確保により生活が保障されると言うことも大切です。知り合いの大工さん牟岐から香川まで毎日、現場に通っているそうです。日本共産党県議のたつた良子さんが以前問題提起していた駐在所の建て替え工事一つ一つなら地元業者で出来るような仕事でも、まとめて県外大手に発注したのは、とてもおかしい事だと思います。

 地元に建設の仕事が少ない。それは庶民の暮らしから目を背け、大企業や富裕層だけが儲かる政治を続けてきた結果ではないでしょうか。低すぎる最低賃金・人口の都会への流出、個人の建築需要の低下、そのしわ寄せが、働く人に見えにくい搾取として降りかかっています。中小個人業者が大切にされ「地元ができる仕事は地元で」「地元が消費するものは地元で作るのが当たり前の社会になればどんなにくらしやすいか」「8時間働けば普通に暮らせる社会」「働く人が大切にされる社会」「誰もが個人として大切にされる社会」その声をご一緒に挙げていきましょう。暮らしを良くする政治は作ることができます。