さこたつみ【佐古竜巳】のブログ

日々の活動や生活の気になったことを紹介します。

誰もが個人として大切にされる社会の方が生きやすい

 大工に憧れた小学生時代

 僕は昭和51年生まれ、現在43歳です。去年の7月から日本共産党に勤めています。海部郡牟岐町で生まれで、うちの家はおやじも爺ちゃんも大工でした。ガタイが良いわけではないのですが職人の親父の腕は太く、大工に憧れ、小学校の文集では将来大工になって自分でお城を建てると書きました。母からは度々いつお城建ててくれるんやと言われていました。高校は徳島工業の建築科に進学しました。部活は陸上部をしていました。高校2年の時には徳島駅伝で海部郡チームとして福井駅から桑野の喫茶店メリットのコースを走りました。

卒業後、就職した会社は10月で辞め、親父が勤めていた建設会社で大工をする事になります。当時すでにバブルがはじけていて、一緒に働いていた大工からは「これからの若い衆は一生懸命働いても、わしらの頃のようにええ目することはない」と言われていました。実際、勤めていた建設会社も平成20年に倒産してしまいました。倒産しなければ今でも大工を続けていたと思います。

土木の世界はブラックが当たり前と思っていた

 失業後、大工の仕事を探しますが、条件の合うところがなく、土木の会社に勤めます。そこは典型的なブラックな働かせ方をする会社でした。就職後1週間目で指を怪我しました。骨が見えるほどの怪我でしたが労災隠しの為に会社は労災を使うことはありませんでした。収入がないと生活ができないので当時は包帯をしたまま働くしかありませんでした。3か月休みなく働いた時もありました。休日手当などもありません。9年間この会社で働きましたが、8年目に転機が訪れます。腰の手術の為、入院したのですが、そこのリハビリを担当していた人に、入院中、僕は何度も会社の愚痴を話しました。「会社に不満があるなら会社をかえればいい」と、その人に言われました。労働の対価以外にも理不尽なことに我慢することも給料に含まれると思っていた当時の僕にその言葉がすぐには響くはずもなかったのですが、その人は幾度も愚痴を聞いてくれて、労働者の権利をかみ砕いて教えてくれました。退院後、この出会いがきっかけで日本共産党に入党しました。

土木作業員の人権をないがしろにする政治に疑問を感じ始める

そのころ、原発事故由来の除染土を土木工事に使うという法案が持ち上がっていたことを、現場監督から聞き一人徳島駅で署名運動を始めました。きっかけは2つあり土木作業員の人権をないがしろするこの法案は決して認められるものでないということ。環境を破壊する恐れのある資材は工事には使ってはいけないというのが土木の国家試験にも出てくる常識であるということです。原発事故後政治のモラル崩壊が加速していると感じました。国のしていることとブラックな会社運営が自分の中で重なり、建交労に相談に乗ってもらい労働者に呼びかけ社長と団体交渉をし建退共に関すること、労働時間、休日手当、残業手当、年次有給休暇、労災隠しをしないなど、多くの前進回答が得られました。しかし根本の政治が良くならなければ暮らしは良くならないと感じるようになります。

誰もが個人として大切にされる社会へ

 労働者の権利を主張すると共に、安定した仕事確保により生活が保障されると言うことも大切です。知り合いの大工さん牟岐から香川まで毎日、現場に通っているそうです。日本共産党県議のたつた良子さんが以前問題提起していた駐在所の建て替え工事一つ一つなら地元業者で出来るような仕事でも、まとめて県外大手に発注したのは、とてもおかしい事だと思います。

 地元に建設の仕事が少ない。それは庶民の暮らしから目を背け、大企業や富裕層だけが儲かる政治を続けてきた結果ではないでしょうか。低すぎる最低賃金・人口の都会への流出、個人の建築需要の低下、そのしわ寄せが、働く人に見えにくい搾取として降りかかっています。中小個人業者が大切にされ「地元ができる仕事は地元で」「地元が消費するものは地元で作るのが当たり前の社会になればどんなにくらしやすいか」「8時間働けば普通に暮らせる社会」「働く人が大切にされる社会」「誰もが個人として大切にされる社会」その声をご一緒に挙げていきましょう。暮らしを良くする政治は作ることができます。