さこたつみ【佐古竜巳】のブログ

日々の活動や生活の気になったことを紹介します。

戦争体験を聞いて

 阿南平和委員会の企画で戦争体験を聞きました。Oさんのお話を書き起こしてみました。

軍事教練に明け暮れた青春時代

 生まれた翌年に満州事変が始まって、1945年の終戦の年まで、後に15年戦争と言われた時代が私の青春時代でした。真珠湾攻撃のあった年に富岡中学校(現在の富岡西高校)に入学しました。戦争体験という話ですが戦争による苦しさとか食糧不足を耐え忍んだ話とかは、親は心配や苦労はあったのでしょうけど、私本人はそう言う経験はないんです。

富岡中学校には、在郷軍人(退職軍人)が配属されて、軍隊教育、軍人教育を学校でやっていたんですけども、富岡中学校の場合にはある重大な事件がおきまして、県からの要請で在郷軍人1人だけでなくて配属将校(現役将校)が1人配属されてきて、校長よりも権限を持つという状況でした。

朝、学校に登校したら、まず《君が代》を歌って、《教育勅語》を斉唱しました。そのあと授業が始まるんですけど、6時限のうち普通の教科は2時限だけでした。あとは全部、体育(軍事教練)に費やされました。その中で特に特徴的なのは【軍人精神注入棒】これ海軍の真似したんですけどね。六角棒でお尻を叩くんです。

さらに何の訓練やるにしても、10人で班を組むんです。その10人の行動が一糸乱れぬ行動でなかったら罰則がつくんです。その罰則について特に印象に残っているのは、富岡中学校から現在ゴルフ場になっているあたりまで往復(およそ4㎞)する訳ですが、成績の悪い2班を校庭に並ばして、10人ずつが対向ビンタ【向かい合わせで殴る】を強要されました。初めは友達同士だから、なかなかできないのですけども、だんだんやられたら、その気になって、殴り返す。公認の殴り合いやからね。それでもなおかつ手加減しとる生徒なんかがいたら、教官がすぐやってきて、軟弱者だということで、六角棒でお尻を叩くんですね。なので皆、泣きながら必死になってやらないと自分だけがボロボロにされるということで、それをやったんです。

大人も逆らえなかった当時の非人道的教育

それを見かねて、担任の太田先生(あだ名は背広を着ているがボロボロだったので高等ルンペン更に略して高ルン)は英語の教師だったんですけども、罰則の現場に寄ってきて「ちょっと、いくら何でも非人道的ではないか」と将校に抗議したんですよ。そしたらとたんに、その先生が標的になって、生徒の見ている前でめったやたらに殴る蹴るをやられて失神したんです。その後、10日ほど、太田先生は休みました。そして、再び出てきたときには国民服(カーキ色の詰襟服)を着て、見かけだけは軍国教師に変わりましたという風貌でした。

そして、いつも朝から《君が代》《教育勅語》さらに《軍人勅諭》までも斉唱、これがだいたい20分かかるんですけども、毎日斉唱、普通教科2時限の後は軍事教練の日々が続くわけです。

米軍機による那賀川鉄橋列車襲撃事件

 これは、なかなか人には言えなかった話なんですけども、当時、夏休みでした。あと少しで終戦というときなのですが、1945年(昭和20年)7月30日の那賀川鉄橋列車襲撃事件の話です。当時、何人か指名されて立江の山の中に駐留日本軍専用防空壕を作る作業をしていました。「今も掘りかけの壕が残っている」それに動員されて、交代で1日に何人かが、その穴掘りに行くわけですが、あの、実はさぼって、小松島まで行って映画を見たり友達と遊んだりしていました。

 その帰りに乗った列車が米軍機による空襲に遭います。当時、終戦間際で勝ち誇っていて遊び半分の艦載機2機が起こした事件なんですけども、意味のない殺戮です。まず機関銃で列車のボイラーに穴をあけ、減速するわけです、次に2両目と3両目の間に小型爆弾を落とします。それで停止させて、それで旋回してきて機銃掃射を2回やったと思うんですけども、誰かが伏せろと言ったので窓際で伏せていました。窓は初めから終わりまで全部撃ち抜かれました。自分は伏せていたので頭の上を弾丸が通過したのですが、反対側の窓際にいた人たちは足首が飛ばされたりしていたのを見ました。

 私たちは子供だったので、怖いという思いが強く米軍機が去ったあと、線路づたいに逃げました。まもなく消防団が到着して、近くにあった製材所の敷地に死傷者が運ばれました。むしろの上に80体程の死傷者が横たわっていました。その後、いっしょの列車にたまたま乗り合わせた1つ上の先輩と共に富岡駅(現在の阿南駅)までトボトボと歩いて帰るわけですが、この話は口に出すわけにいかんな、2人だけの秘密にしようということにしました。おそらく動員をさぼっていたのがばれたら体罰があるというのがあったのでしょうけども。

脳裏に焼き付いた悲惨な状況

 一番印象に残っているのは恐怖に耐えかねてあの高い鉄橋から飛び降りたものの水位が低いので頭を打ちつけて、そのまま亡くなったりだとか、製材所に集められた80体の人はほとんど死者だったんですけども、一番心に残っているのは、おそらく死んだ母親の横に今生まれたばかりの赤ん坊がギャーギャー言って泣いていたんです。もし生きていたら75歳になっているんかな、生きているなら会ってみたいという気持ちがあります。‥まあそういうことです。私自身はあんまり褒められた話ではないので恥ずかしい話なのでこのくらいにしますけどそういう状況だったわけです。

感想

淡々とお話ししてくれたOさんですが、赤ん坊の話をしたとき、涙ぐんでいました。戦争は人間の感覚も狂わす非人道的なものであること。どんなに大義名分をつけようとも意味のない殺戮であることがよくわかりました。昨今の戦争では兵士よりも民間人の死者の割合の方が多いのです。戦争は外交の失敗で恥です。日本はまだ戦争をしない方法を選び取ることができます。