さこたつみ【佐古竜巳】のブログ

日々の活動や生活の気になったことを紹介します。

戦争体験を聞いて

 阿南平和委員会の企画で戦争体験を聞きました。Oさんのお話を書き起こしてみました。

軍事教練に明け暮れた青春時代

 生まれた翌年に満州事変が始まって、1945年の終戦の年まで、後に15年戦争と言われた時代が私の青春時代でした。真珠湾攻撃のあった年に富岡中学校(現在の富岡西高校)に入学しました。戦争体験という話ですが戦争による苦しさとか食糧不足を耐え忍んだ話とかは、親は心配や苦労はあったのでしょうけど、私本人はそう言う経験はないんです。

富岡中学校には、在郷軍人(退職軍人)が配属されて、軍隊教育、軍人教育を学校でやっていたんですけども、富岡中学校の場合にはある重大な事件がおきまして、県からの要請で在郷軍人1人だけでなくて配属将校(現役将校)が1人配属されてきて、校長よりも権限を持つという状況でした。

朝、学校に登校したら、まず《君が代》を歌って、《教育勅語》を斉唱しました。そのあと授業が始まるんですけど、6時限のうち普通の教科は2時限だけでした。あとは全部、体育(軍事教練)に費やされました。その中で特に特徴的なのは【軍人精神注入棒】これ海軍の真似したんですけどね。六角棒でお尻を叩くんです。

さらに何の訓練やるにしても、10人で班を組むんです。その10人の行動が一糸乱れぬ行動でなかったら罰則がつくんです。その罰則について特に印象に残っているのは、富岡中学校から現在ゴルフ場になっているあたりまで往復(およそ4㎞)する訳ですが、成績の悪い2班を校庭に並ばして、10人ずつが対向ビンタ【向かい合わせで殴る】を強要されました。初めは友達同士だから、なかなかできないのですけども、だんだんやられたら、その気になって、殴り返す。公認の殴り合いやからね。それでもなおかつ手加減しとる生徒なんかがいたら、教官がすぐやってきて、軟弱者だということで、六角棒でお尻を叩くんですね。なので皆、泣きながら必死になってやらないと自分だけがボロボロにされるということで、それをやったんです。

大人も逆らえなかった当時の非人道的教育

それを見かねて、担任の太田先生(あだ名は背広を着ているがボロボロだったので高等ルンペン更に略して高ルン)は英語の教師だったんですけども、罰則の現場に寄ってきて「ちょっと、いくら何でも非人道的ではないか」と将校に抗議したんですよ。そしたらとたんに、その先生が標的になって、生徒の見ている前でめったやたらに殴る蹴るをやられて失神したんです。その後、10日ほど、太田先生は休みました。そして、再び出てきたときには国民服(カーキ色の詰襟服)を着て、見かけだけは軍国教師に変わりましたという風貌でした。

そして、いつも朝から《君が代》《教育勅語》さらに《軍人勅諭》までも斉唱、これがだいたい20分かかるんですけども、毎日斉唱、普通教科2時限の後は軍事教練の日々が続くわけです。

米軍機による那賀川鉄橋列車襲撃事件

 これは、なかなか人には言えなかった話なんですけども、当時、夏休みでした。あと少しで終戦というときなのですが、1945年(昭和20年)7月30日の那賀川鉄橋列車襲撃事件の話です。当時、何人か指名されて立江の山の中に駐留日本軍専用防空壕を作る作業をしていました。「今も掘りかけの壕が残っている」それに動員されて、交代で1日に何人かが、その穴掘りに行くわけですが、あの、実はさぼって、小松島まで行って映画を見たり友達と遊んだりしていました。

 その帰りに乗った列車が米軍機による空襲に遭います。当時、終戦間際で勝ち誇っていて遊び半分の艦載機2機が起こした事件なんですけども、意味のない殺戮です。まず機関銃で列車のボイラーに穴をあけ、減速するわけです、次に2両目と3両目の間に小型爆弾を落とします。それで停止させて、それで旋回してきて機銃掃射を2回やったと思うんですけども、誰かが伏せろと言ったので窓際で伏せていました。窓は初めから終わりまで全部撃ち抜かれました。自分は伏せていたので頭の上を弾丸が通過したのですが、反対側の窓際にいた人たちは足首が飛ばされたりしていたのを見ました。

 私たちは子供だったので、怖いという思いが強く米軍機が去ったあと、線路づたいに逃げました。まもなく消防団が到着して、近くにあった製材所の敷地に死傷者が運ばれました。むしろの上に80体程の死傷者が横たわっていました。その後、いっしょの列車にたまたま乗り合わせた1つ上の先輩と共に富岡駅(現在の阿南駅)までトボトボと歩いて帰るわけですが、この話は口に出すわけにいかんな、2人だけの秘密にしようということにしました。おそらく動員をさぼっていたのがばれたら体罰があるというのがあったのでしょうけども。

脳裏に焼き付いた悲惨な状況

 一番印象に残っているのは恐怖に耐えかねてあの高い鉄橋から飛び降りたものの水位が低いので頭を打ちつけて、そのまま亡くなったりだとか、製材所に集められた80体の人はほとんど死者だったんですけども、一番心に残っているのは、おそらく死んだ母親の横に今生まれたばかりの赤ん坊がギャーギャー言って泣いていたんです。もし生きていたら75歳になっているんかな、生きているなら会ってみたいという気持ちがあります。‥まあそういうことです。私自身はあんまり褒められた話ではないので恥ずかしい話なのでこのくらいにしますけどそういう状況だったわけです。

感想

淡々とお話ししてくれたOさんですが、赤ん坊の話をしたとき、涙ぐんでいました。戦争は人間の感覚も狂わす非人道的なものであること。どんなに大義名分をつけようとも意味のない殺戮であることがよくわかりました。昨今の戦争では兵士よりも民間人の死者の割合の方が多いのです。戦争は外交の失敗で恥です。日本はまだ戦争をしない方法を選び取ることができます。

那賀川を行く

 

下流から一つ目のダム(川口ダム

 

今日は新聞赤旗(日曜版)を木頭まで届ける日でした。那賀川上流に向かって走るのですが、3つのダム湖の側を通ります。常に水が動かないためか濁り不自然な緑色の水です。ダムのない牟岐町で育った僕にとって川の底が見えない事がとても気になります。自然をコントロールするために作ったコンクリートの構造物は、自然を壊してしまっている。もう一つ気になるのが山は緑ですが、杉ばかりと言う事です。国策で杉を植えまくったからです。「杉は根が張らないので貯水力がない、緑の砂漠だ」那賀町議の大沢さんはそう言います。牡蠣の生産地は海を肥えさせるには山からだと山の環境から考えます。杉は針葉樹林なので落ち葉は腐葉土にならず、山は痩せる一方です。漁獲量が年々減っているのは当然の事です。海と山は一体です。自然のダムをなくし、コンクリート構造物のダムをつくった結果、水質は悪化。かつては澄んだ川だったはず。

 

二つ目のダム長安口ダムのダム湖に架かる橋、腐りかけていてスリルのある橋

  • ダムのメリット:水力発電、干ばつ対策、
  • デメリット  :放流の判断を間違うと水害が起こる、水質悪化、景観を損なう。

3つ目の小見野々ダムと杉ばかりの山

 

 那賀川はかつて暴れ川と呼ばれ龍神の怒りを鎮める為に、村娘を生贄に捧げたという昔話が残る川です。

 ダムは大量に水を貯める物です。人間の予想を超えない雨量ならコントロールできるかもしれません。しかし人間の予想を超えた雨が降るとコントロールどころか暴れ川に姿を変えることもあります。自然をコントロールしようとは人間の驕りです。便利さと引き換えに那賀川が失ったものは大きいように思えてなりません。

 

 

小見野々ダム上流、昔の川底は遥か下だったそうだ。今は土が堆積してしまっている

「表現の不自由」考える

反省の気持ち、そして同じ過ちは2度と繰り返さない

過ちて改めざる是を過ちという《「論語」衛霊公から》過ちは誰でも犯すが、本当の過ちは、過ちと知っていながら悔い改めないことである。

 表現の不自由展その後をめぐって、慰安婦像が反日の象徴の様に捉える人たちがいる。今日(8月28日)の地元新聞は神奈川県知事が慰安婦像について「事実を歪曲したような形の政治的メッセージだ」と批判した。という記事を掲載していました。同じ日の赤旗新聞に「少女像に込めた思い聞く」というのが掲載されていたので、紹介します。  

以下、赤旗新聞日刊紙8月28日号の記事より (写真・記事:栗原千鶴)

「少女像」日韓の懸け橋に

 ソウルの平和路に設置された「少女像」

製作の彫刻家キム・ソギョンさん キム・ウンソンさん語る

 28年にわたり韓国ソウルのい日本大使館前で「慰安婦」問題の解決を目指したたかってきた被害者の若かりし日をモチーフにつくられた「平和の碑」(少女像)。製作した韓国の彫刻家キム・ソギョンさんとキム・ウンソンさん夫妻に、少女像に込めた思いや、展示が中断された国際芸術祭・あいちトリエンナーレの「表現の不自由展・その後」について聞きました。

手を取り被害想像して

少女像は1992年1月から現在も毎週行われれている「慰安婦」問題解決のための水曜行動が、1000回を迎えたことを記念して2011年12月に建てられました。日本の一部の政治家や保守系のメディアは、少女像を「反日の象徴」などといいますが、それは違います。「慰安婦」の被害の歴史を記憶し、人権のためにたたかい続けるハルモ二(おばあさん)をたたえ、運動を象徴するためのものです。

 少女像には、ハルモ二の苦しく長かった人生や未来への夢など、すべてをこめました。

韓国社会の問題も

少女の後ろに伸びている影は、ハルモ二の姿になっています。少女の時に動員され、謝罪を受けることのないまま年を重ねたハルモ二の悲しみを表現しました。肩に乗っている小鳥は、平和と自由を象徴し、今もこの地でたたかい続けるハルモ二と亡くなったハルモ二をつなぐ絆です。

 被害にあった当時、朝鮮の女性は長い髪を三つ編みにするのが一般的でしたが、あえて短く、毛先のそろっていないおかっぱ頭にしました。それは大切な家族や故郷から無残に引き裂かれたことを意味します。当初そっと重ねようと考えていた両手は、日本政府が建立を妨害していると聞き、ハルモ二のたたかいを表す握り拳にしました。

 

 擦り切れているはだしの足は、彼女たちの歩んできた人生の険しさを表しました。その足は少し、かかとが浮いています。これは被害者を受け入れることをしなかった韓国社会の偏見と、無策だった韓国政府の無責任さを表しています。

 韓国は、大家族の家父長制でした。被害を受けたことが恥ずかしく、解放後も故郷に戻れなかった人がいます。帰ることができても、家族や親せきにさえ疎まれ、再び故郷を去らざるを得なかった人もいる。被害者が罪人のようにひっそりと生きていかなければならなかったのです。 

 金学順(キム・ハクスン)さんが実名を公表し、被害を告発したのは1991年8月でした。その事実に心を痛めつつも、被害者がいて加害者もはっきりしている、解決はそう遠くないだろうと考えていました。

 しかし2011年1月、水曜集会に遭遇しました。まだ解決していなかったのかという驚きと、そのことを知らなかったという申し訳なさが募りました。集会の主催団体を探し訪ねると、支援者から寄付を募り「平和の碑」建立プロジェクトが進行中で、芸術家としてできることをやろうと決意しました。

再展示求める声に希望

 芸術家たちの表現の自由が守られることは民主主義の基本です。「表現の不自由展」で、少女像が最後まで展示することができれば、日本に民主主義があるということが証明されると考えていましたが、そうはなりませんでした。短い時間でしたが、私が会場にいて感じたのは、日本の市民の成熟した姿勢です。

 説明を熱心に読みメモをとる人や、ハルモ二たちの境遇を思って涙しながら鑑賞する人もいました。多くの人から「展示してくれてありがとう」「反日の象徴だと誤解していた」と声をかけられました。中断している「不自由展」の再開を求め行動する市民もいて、被害者の人権を無視している安倍政権とは違うと感じ、本当にうれしく思いますした。

反日ではなく共感

 少女像の隣には誰も座っていない椅子を置きました。亡くなったハルモ二たちが隣で見守っているよ、という意味があります。そして通りかかった人が、なぜここに椅子があるのかと考え、座って少女像の手を握り、ハルモ二が夢見る平和を想像したとき、この作品は完成します。

 少女像を訪れた人は、暑い日には帽子をかぶせたり、寒い日にはマフラーをまいたりします。手紙を書いてくる人もいます。そこにあるのは「反日」ではなく、つらい人生を歩んできた被害者への共感です。

 安倍政権は憲法9条を変えて戦争できる「普通の国家」になろうとしていますよね。いま、戦争は絶対ダメだという日韓の市民の連帯が大事だと思います。

 少女像がその懸け橋になることを願います。一人ひとりの小さな行動、その小さな炎が、大きな歴史をつくるはずです。

 

    引用終わり

 

あとがき

 戦争とは最大の人権侵害です。

 想像してください日本が戦争して、その後日本にとっていい未来が見えますか?僕には見えません、「普通に生きたい」という人の命や人生を奪うそんな過ちは、けっして繰り返してはならないのです。赤旗新聞の記事を読んで少女像をじかに見てみたいと思いました。この日の1面にも戦争体験者の話が載っていました。こちらも感動しました。真実を伝える新聞赤旗は魅力ある記事がいっぱいです。

誰もが個人として大切にされる社会の方が生きやすい

 大工に憧れた小学生時代

 僕は昭和51年生まれ、現在43歳です。去年の7月から日本共産党に勤めています。海部郡牟岐町で生まれで、うちの家はおやじも爺ちゃんも大工でした。ガタイが良いわけではないのですが職人の親父の腕は太く、大工に憧れ、小学校の文集では将来大工になって自分でお城を建てると書きました。母からは度々いつお城建ててくれるんやと言われていました。高校は徳島工業の建築科に進学しました。部活は陸上部をしていました。高校2年の時には徳島駅伝で海部郡チームとして福井駅から桑野の喫茶店メリットのコースを走りました。

卒業後、就職した会社は10月で辞め、親父が勤めていた建設会社で大工をする事になります。当時すでにバブルがはじけていて、一緒に働いていた大工からは「これからの若い衆は一生懸命働いても、わしらの頃のようにええ目することはない」と言われていました。実際、勤めていた建設会社も平成20年に倒産してしまいました。倒産しなければ今でも大工を続けていたと思います。

土木の世界はブラックが当たり前と思っていた

 失業後、大工の仕事を探しますが、条件の合うところがなく、土木の会社に勤めます。そこは典型的なブラックな働かせ方をする会社でした。就職後1週間目で指を怪我しました。骨が見えるほどの怪我でしたが労災隠しの為に会社は労災を使うことはありませんでした。収入がないと生活ができないので当時は包帯をしたまま働くしかありませんでした。3か月休みなく働いた時もありました。休日手当などもありません。9年間この会社で働きましたが、8年目に転機が訪れます。腰の手術の為、入院したのですが、そこのリハビリを担当していた人に、入院中、僕は何度も会社の愚痴を話しました。「会社に不満があるなら会社をかえればいい」と、その人に言われました。労働の対価以外にも理不尽なことに我慢することも給料に含まれると思っていた当時の僕にその言葉がすぐには響くはずもなかったのですが、その人は幾度も愚痴を聞いてくれて、労働者の権利をかみ砕いて教えてくれました。退院後、この出会いがきっかけで日本共産党に入党しました。

土木作業員の人権をないがしろにする政治に疑問を感じ始める

そのころ、原発事故由来の除染土を土木工事に使うという法案が持ち上がっていたことを、現場監督から聞き一人徳島駅で署名運動を始めました。きっかけは2つあり土木作業員の人権をないがしろするこの法案は決して認められるものでないということ。環境を破壊する恐れのある資材は工事には使ってはいけないというのが土木の国家試験にも出てくる常識であるということです。原発事故後政治のモラル崩壊が加速していると感じました。国のしていることとブラックな会社運営が自分の中で重なり、建交労に相談に乗ってもらい労働者に呼びかけ社長と団体交渉をし建退共に関すること、労働時間、休日手当、残業手当、年次有給休暇、労災隠しをしないなど、多くの前進回答が得られました。しかし根本の政治が良くならなければ暮らしは良くならないと感じるようになります。

誰もが個人として大切にされる社会へ

 労働者の権利を主張すると共に、安定した仕事確保により生活が保障されると言うことも大切です。知り合いの大工さん牟岐から香川まで毎日、現場に通っているそうです。日本共産党県議のたつた良子さんが以前問題提起していた駐在所の建て替え工事一つ一つなら地元業者で出来るような仕事でも、まとめて県外大手に発注したのは、とてもおかしい事だと思います。

 地元に建設の仕事が少ない。それは庶民の暮らしから目を背け、大企業や富裕層だけが儲かる政治を続けてきた結果ではないでしょうか。低すぎる最低賃金・人口の都会への流出、個人の建築需要の低下、そのしわ寄せが、働く人に見えにくい搾取として降りかかっています。中小個人業者が大切にされ「地元ができる仕事は地元で」「地元が消費するものは地元で作るのが当たり前の社会になればどんなにくらしやすいか」「8時間働けば普通に暮らせる社会」「働く人が大切にされる社会」「誰もが個人として大切にされる社会」その声をご一緒に挙げていきましょう。暮らしを良くする政治は作ることができます。

沖縄県知事選挙を振り返る

沖縄は誇りある新時代に向けて動き出した。 

 

 9月5日から10月1日まで、武力に頼らない社会こそ、真に愛する人を守ることという決意のもと沖縄県知事選挙の支援に行って来ました。沖縄県民の7割が反対する辺野古新基地建設は僕の一番の関心事でした。相手候補は宜野湾市長選挙の時、公約で普天間のフェンスを取り払うと掲げて当選したものの、アメリカや政府に言われるがまま普天間基地の改修工事(65億円)を認めた人物です。今回の知事選挙でも「基地問題は国が決めることだ。地方には限界がある。」などと、県民に背を向ける候補でした。

 

 

 翁長知事の遺志を継ぐ 

 一方、玉城デニーさんは9月22日(雨)の「うまんちゅ大集会」で「翁長知事の理念を引き継ぎ、辺野古新基地は絶対に造らせない。普天間は閉鎖、撤去だ」と強調、指笛やデニーコールが鳴り響きました。城間那覇市長の「翁長さんは、雨男だった。すぐそばに来ていますよ」の言葉には涙が出ました。

 翁長樹子さんは全ての権力を行使して沖縄の民意を押しつぶそうとする日本政府のやり方に集会で発言することを決意し、「この沖縄は翁長が心の底から愛して、140万県民を本当に命がけで守ろうとした沖縄です。県民の心に1ミリも寄り添おうとしない相手候補に譲りたくはない」「ウチナンチュの心をさらけ出し、マグマを噴出させて命かじり頑張りましょう」と訴えると、会場からは拍手がなりやみません。感動的な大集会でした。

ぐすーよー まきて ないびらんど ぬちかじり ちばりなやーさい

 故翁長さんは米軍基地反対だけでなく、県民の平均所得40万円アップ、失業率改善や子供の貧困対策など平和と経済発展(観光関連1兆円越え)の両立の実績を残しました。その翁長さんの遺志をつぎ、みんなに真心で接する事を約束した玉城デニーさんを心から応援することができました。

「県民は最後には正しい選択をする」翁長さんは生前、妻の樹子さんにそう言っていたそうです。翁長さんが提起した日米地位協定改定への動きも全国知事会で始まっています。「皆さん負けてはいけませんよ命の限り頑張りましょうね」翁長さんが残した言葉です。

 あとがき

「いしがんとう」沖縄のT字路などでよく見かけます。魔物が家に入ってこないようにするお守り、これに触れると魔物は砕け散るそうです。

異常な対米従属で事件、事故に目を背け、過去の戦争を美化する政治家は魔物です。

みんなの心に石敢當 

                         

                              文:佐古竜巳

思いやり

日米地位協定検証

 


日米地位協定に定められた米軍の特権

2条

日本全土で基地の使用が認められる。自衛隊基地の使用も

3条

提供された基地の排他的管理権を有し、自由に出入りできる

4条

基地の返還の際、米側は原状回復・保証の義務を負わない

5条

民間空港・港湾、高速道路に出入りできる。利用料は免除

6条

航空管制の優先権を与える

7条

日本政府の公共事業、役務を優先的に利用できる

8条

日本の気象情報を提供する

9条

旅券なしで出入国できる

10条

日本の運転免許なしで運転できる

11条

関税・税関検査を免除

12条

物品税、通行税、揮発油税、電気ガス税を免除

日本が基地従業員の調達を肩代わり

13条

租税・公課を免除

14条

身分証明を有する指定契約者は免税などの特権を得る

17条

「公務中」の事件・事故で第1次裁判権を有する

18条

被害者の補償は「公務中」で75%支払い、公務外は示談

24条

基地の費用を分担。日本政府の拡大解釈で「思いやり予算」の根拠に

25条

日米合同委員会の設置

 

 

日米地位協定は1960年1月に改定された日米安保条約の6条(基地の供与)に基づくもので、全28条からなります(表)。その内容は次の3つに大別されます。

 

  1. 基地の提供 米軍は日本全土に基地を置くことができ、「移動」のため日本中の陸海路、空域を使用できる。基地返還の際、原状復帰の費用は負担。さらに日本側は地代など基地の費用負担を分担する。

 

  1. 基地の管理 米軍は提供された基地を排他的に管理し、火災や環境汚染などが発生しても日本側当局者は許可なしに立ち入れない。米軍は基地内に自由に施設を建設でき、どのような部隊も配備できる。無通告の訓練も可能。

 

  1. 米軍・軍属の特権的地位 国内で米兵や軍属が犯罪や事故を起こしても、「公務中」であれば米側が第裁判権を有する。被害者への補償は「公務外」の場合、示談。多くは泣き寝入り。また、納税や高速道路の利用料免除、旅券なしで出入国可能など、多くの特権が。

 

 

 

 

処分もされずに・・・

日米地位協定に基づく膨大な国内法も整備されています。例えば、航空機が飛行中に物を落としたら航空法に基づいて処罰されますが、米軍機は航空法特例法により、普天間第二小のような部品の落下事故でも罰せられません。オートローテーション機能がないオスプレイが国内を飛べるのも、同法があるからです。 また、事故現場の立ち入り規制は、地位協定合意議事録で、米軍の「財産権」が保障されていることを根拠にしています。

さらに、地位協定は膨大な密約と一体で運用されています。たとえば、「公務外」の事件・事故の場合は日本側が第裁判権を有しますが、その場合でも日本側が裁判権を行使しないとの密約が存在しています。

 赤旗より転載

 

ルールある経済社会とは

 ルールある経済社会とは?(科学的社会主義

 

日本では、長時間労働、過労死、人間を使い捨てにする不安定雇用など、ひどい働かせ方が野放しにされています。社会保障は貧弱、女性差別は根強く、多くの人を苦しめています。それは、ヨーロッパでは当たり前になっている国民の生活や権利を守るルールが日本にはないか、あっても非常に弱いからです。この現状を打ち破って、ヨーロッパの国々や国際条約では当たり前になっている国民の生活と権利を守るルール作りをすすめ、「ルールある経済社会」をめざす¦これが日本共産党の経済改革の基本的な考え方です。

 こうした考え方は、⒚世紀のイギリスでの「工場法」(1日の労働時間などを規制する法律)をめぐる労働者のたたかいにさかのぼることができます。イギリスでは、資本主義の発展とともに1日の労働時間は延長され、9歳、⒑歳の児童を含め、⒓時間、⒗時間も働かされる事態となりました。それにたいして、労働者の反撃が始まり、1850年に「10時間労働制」が実現します。

 マルクスは、資本論の中でその意義を次のように指摘しました。

 

‶わが亡きあとに洪水よ来たれ〃」これが、すべての資本家と資本家国のスローガンである。それゆえ、資本は、社会によって強制されるのでなければ、労働者の健康と寿命に対し、なんらの顧慮も払わない」

 「わが亡きあとに、洪水よ来たれ」というのは、フランスの国王ルイ⒖世の愛人ポンパドール夫人の言葉です。贅沢三昧をする夫人に、ある人が「そんなことをしていると、国家の財政が破綻して大変なことになります」と忠告したところ、夫人は「そんな話は私が死んだあとにして」と言ったというのです。つまり、この言葉は「あとは野となれ山となれ」という意味です。

 資本は、労働者の健康や寿命など気にせずに、利潤のためひたすら労働時間の延長を追求します。資本が競い合ってそんなことをやったら、労働階級そのものが衰退し、やがては社会全体も成り立たなくなります。しかし、資本主義の中には、それにストップをかける仕組みがないのです。だから、社会が法律というルールを強制する必要がある¦そのことをマルクスは明らかにしたのです。

 こうしたルールづくりの動きはその後さらに大きく広がりました。しかし、日本の現状は大きく立ち遅れています。だからこそ、ヨーロッパや国際条約の到達点をふまえて、日本でも国民の生活と権利を守るルールづくりを進めるというのが私たちの考えです。

 これは、大企業を「敵視」したり、つぶそうとしたりするものではありません。資本主義の枠のなかで実現可能な改革であり、大企業にはその社会的な力にふさわしい社会的責任をきちんと果たしてもらおうというです。そうしてこそ、日本経済全体の回復につながるのではないでしょうか。

文:卜部 学